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can’t hide.

yawning

ここのところ、所謂文化系の活動はほとんど休止中で、所謂運動系の活動ばかりしている。元々ハイキングとフィットネスジムが始まりだけど、最近は雨が多く後者ばかり。

受動的なところから能動的なところに自分を置くこと、身一つで成果まで辿り着けること、そこかしこにある雑音に惑わされなくて済むこと、などなど今の自分にとって必要なことが多分に含まれている。でもそんなことよりも、ただやりたいからやっているだけなような気もしてきている。
強いて言うなら、東京は本当に文化的なものが溢れていて、10年近くその文化を享受しようと自分なりに躍起になっていた。そうするとどんどんフィジカルが置き去りになり、加えて加齢からくる衰えも感じつつあって、ここらで一度学生時代の動けていた自分を取り戻してみようじゃないかと発起した。
だいぶ体も絞れてきたし、持久力もそこそこついた。とはいえイメージの中にある過去の自分はまだ先にある。そこまでいけるかわからないというかおそらく無理だとわかっていても、諦める選択をする必要はないだろうから細々とでも続けたい。

知識や技術や感情や言葉やその他諸々を最大限に活かすには、肉体というプリミティブなものをある程度自由に動かせられないといけない。逆に特別な能力がないからこそ、それが重要なんだと思う。
あとは職業柄、腹の出てる奴がサスティナブルとかスマートとかデザインとかのたまっても説得力ねぇだろ、単純に。「お前自身の持続可能性はどうなんだ?」とか思われるだろ、心の奥で。

去年は資格の年だとしたら、今年は肉体鍛錬の年にしたい。

誕生日に語る(べきことかはわからない)。

moment

今や誕生日が少しでも特別な日だと感じられるのは、過去の記憶からくるものでしかないのかもしれない。もう少しでそれ以外の364日と何ら変わらない日常に溶け込んでしまうような。年末年始の方が世の中全体の雰囲気ががらりと変わるから、よっぽど特別感がある。

 

そんなわけで、32歳になった。少しずつ老いや死に対する恐怖が芽生えてきている。ここ1〜2年の諸々で、歳を重ねる準備ができていない。いや、準備というよりも実績や経験を積み重ねていないと言った方が適切だ。
これからはこの、何もしていない、何もできていない、という無力感を少しずつ達成感に変えていけるような、そんな日々を送りたいなと思う。それはもちろん仕事のことでも、それ以外のことでも。

コーヒーマップを作ったり、アウトドアコーヒーを開催したりしたのは、純粋な欲求ももちろんあるけど、仕事で突っ走ることができない現状に対する不安解消の要素もあったように感じる。今月から元の部署に戻ったことにより、遅かれ早かれ忙しない日々が訪れるはずなので、どれだけできるかわからないが、少しでも仕事以外のアウトプットを続けていければなと考えている。(タイミングをみて、また何か作成したり企画したりする予定なので、その際はよろしくお願いします。)

書いてきたことにも少し関係するけど、最近は言論での主張・批評に違和感を覚えることが多く、きっと「偉そうなこと言ってるけど、どんだけのことやってきたの?」って気持ちが強まっているからだろう。そして、それは間違いなく自分に対しての裏返し。(これは携わっている分野への言論に限定されることであって、何もやってないから政治を語れないとかそういうレベルの話ではなく。)

結局、否定的なあるいは攻撃的な心の有り様というのは、自分の自信のない部分から出てくることも多いので、他の人の色んな考えや生き方を許容できるようにするためにも、軸とか筋とかってものを持ちたい。逆に、自分の軸とか筋とかに拘りすぎて、否定的なあるいは攻撃的な心の有り様に繋がることもあるので、謙虚さも忘れないようにしたい。
こんなことをくどくど書いたのは、否定的・攻撃的・威圧的が基本スタンスの人で尊敬・信頼できた試しがないから。とはいえ、真剣になればなるほど「そりゃねぇだろ」って場面も増える傾向にあるから、なかなか難しいところもあることは承知でなんとかしたい。

 

なんだか誕生日に相応しくない雰囲気になってしまった。ニケがいなかったら現実世界でもハッピーから離れた日になっていたと思うので、相変わらず存在自体に救われている。

それではまた。

Never mind.

almost over

誰かの言葉も見える風景も聴こえる音も皮膚にあたる風すらも、自分の状態次第で湧いてくる感情が違う。とても難しいよね。同じ時間、同じ場所に立って、同じ方向を眺めていたって、隣の人が同じことを考えているわけではないのだから。
僕の善かれがあなたの悪しきにもなる。大切な人への思いやりが、また別の大切な人を傷つけることだってある。

全てが相対化されて、常に比較が側を付きまとう。努力の相対化、絶望の相対化、才能の相対化、なんだって上下関係で見られる。もうその見方しかないんじゃないかってくらい比較の中を生きている。
後ろめたさや見下しや妬み。全部そこから出てくる。

そして変化は許容されない。時間が経つにつれて考えや気持ちが変わることなんて当たり前のことなのに、ありとあらゆる発言に責任が伴ってくる。

がんじがらめだ。
僕はそう感じて動きづらくなっているので、もっと自由にやろうと思う。見えない群衆の抑止力を気にせず、明らかに邪なことを除いて、心から出たものをそのままポンと出したい。他の人が自分の考えと違ったって、「あー、そういう考え方もあるのか」って受け入れたい。敵じゃない。考え方の違う人がいるだけだ。

直接的な利益・不利益が生じてしまう場合はそう単純でないにしろ、できるだけしなやかな様で暮らしていければなと、そんなことを意識する今日この頃。

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