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粛々と。淡々と。着々と。

Mt. Takekawa

モロッコから帰国。旅行中の話はまあ色々とあるのだけれど、なんというか30年以上の積み重ねた「自分」という存在はそんなに簡単に変わるものじゃないと、何もかもが違う場所から戻ってきて(いや旅行中から)感じている。
旅行記は手書きで残しているが、それをここにまとめるかどうかは悩み中。その前にポートランドを年内で終わらせるのが目標だ。(旅行は2年前。。)

大小あれど、日々マイナス方向へ感情が振れる。自分の場合、それを外に吐き出すか内で無理矢理消化するかでいうと、後者の方がストレスを溜めない気がする。言えば言うほど苛立ちや落ち込みの量が増えるし、後にも引きずるような。そういうことに気づいてからは、表面上いかに淡々と動けるかを実践している。行動から心理をコントロールするみたいな感じで。

とても漠然とした言い方だが、最近はこれは手段だなと思うことが多く、じゃあ目的は何かと考えるとなかなか難しい。ゴールを意識することが(自分にとっては)とても難しくて、過程の比重が増している。その積み重ねでいきなり霧が晴れて「あれがゴールだ」と感じられる瞬間がやってくるのかもしれない。現時点では「あそこを目指そう」という『あそこ』がいくら目を凝らしても見えそうにないのだから、それに期待するより仕方がない。

粛々と。淡々と。着々と。
(これは決して悪いことではないと思う。)

here and there.

Mt. Warabi

高級なものを手に入れたり、特別な待遇を受けたり、そういったことで満たされるものは確かにあるのかもしれない。それはそれとして、ごく普通の日常に潜んでいる自分にしかわからないような琴線に充足を見出だすのもなかなか悪くない。

例えば、福沢諭吉が軽々飛んでいく店で上質なものをほおばる日もあれば、野口英世1枚でおつりがくるような汚い店でしっぽりやる日もあって、その両方とも形は違えど楽しめればそれに越したことはない。兎にも角にも大切なのは、自分を満たしてくれるものはなんなのか意識することである。他人から羨望されることが喜びだとしても(個人的にはあまりそういうことで自分を満たす人は苦手だけど)、まあ特に問題はない。ただし、その限定された枠の中だけの基準を何もかもに当てはめてしまうのはもったいない。多様な価値観を認めるみたいな言説もそりゃ重要だけど、自分自身を多様化させていかなきゃどこかで行き詰まってしまう気がしないでもない。

目を凝らせば大抵そこには面白がれる要素がある。と同時に、それでもどうしても果てしない悲しみが広がっている場合もある。それがまたとても難しいのだけれど。

方向転換、あるいは軌道修正。

Mt. Hodo

ハイキングとジム通いを新しく始めた。
山の気持ち良さやトレーニングの達成感など、手段としてだけでなく、そのこと自体に面白く取り組めている。この調子で継続できるのが一番だけど、仕事の忙しさによってはなかなか難しいはずなので、そういうときでもか細く続けていきたい。

目的のための手段としている部分もあって、それはやはり健康維持や体力強化あたり。特にここ数年は長時間のデスクワークや運動不足を要因として、体のあちこちが痛い状態が普通になってしまい、それによって集中力や思考力、そしてメンタル的な部分が弱っているような気がしていた。
元々メンタルはそれほど強くなく、気持ちの切り替えなどでどうにかタフになれないものかと思っていたりもしたが、根本的な改善には至らない。そこから、メンタルが向上しないなら、せめてフィジカルだけでもというところに着地した。体は屈強なのに心は病んでるみたいな人はあまり見かけないし。

始めてからの日が浅いため、結果(効果)はもう少し様子を見た方がいいかもしれない。ただ、少なくともあちこち痛かった体は痛みを感じることがほとんどないし、気分が落ち込む機会も減ったように思う。
もちろん、精神的に弱っている人は運動すれば解決みたいな単純な話ではないけど、やり方の1つとして、まずは体を健康な状態に持っていくみたいな方法もありそう。

一方で、やりたいことが増えてくると、珈琲を筆頭として今までの趣味に割ける時間が減少しているので、そのうちうまくバランスをとれるようになるといいな。