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共同作業。

Koenji, Tokyo
Photo by Nike

鳥の群れが旋回していた。僕が合図して、妻がシャッターを切った。

A rolling stone gathers no moss.

Asagaya, Tokyo
Maihama, Chiba

30年も生きていると、人生は転がり続けなくちゃいけないんだとさすがに気づかされる。静止できたと思っても、あくまでも一時的なことにすぎない。意志や正否にかかわらず、果てるまで止まらない(止まれない)。

書いてみると当たり前のこと。でも昔は無意識のうちに、自分のさじ加減でコントロールできると心の片隅で思っていたような気がする。

転がることを面白がれればいい。

ロングバケーション。

「適応障害、あるいは心身症という病気ですね」
いくつかの病院を回って辿り着いたクリニックの先生に、そう告げられた。
僕は心の底からほっとした。これまで原因不明だったこの不調の原因がようやく解明したからだ。

調子が悪いと感じ始めたのは、昨年6月くらいからだろうか。主な症状は異常発汗。ちょうど東京も暑くなってくる頃だったので、そのせいかもしれないなんて考えていた。
7月。なんとかトルコ旅行に行く。(むしろ、トルコ旅行という目標があったから踏ん張れたのかもしれない。)8月もお盆休みを挟んだりすることもあり、なんとか乗り切る。
9月に入り、いよいよこれはおかしいと思い始める。発汗に加えて頻尿の症状。寝ている間にTシャツを2〜3回(多いときは5回なんて日も)着替えたし、トイレにも3〜4回くらいは起きた。日中は仕事に忙殺されていることをいいことに、なるべく考えないようにするも、このままにはしておけないと思い、会社近くのクリニックへ。
確か発熱とか腹痛とか風邪の症状も出ている時だったので、血液検査だけして、とりあえず風邪の方を治しましょうみたいなことだった気がする。風邪の症状が収まり、検査結果を聞きにいく。どうやら甲状腺に関する一部のホルモンの数値が低いとのこと。が、病名がつくレベルではないらしく、経過観察になった。
それでも体調は相変わらずだ。一度ちゃんと見てもらおうと、意を決して大学病院に行ってみる。脳に腫瘍がある疑いでMRIをしたり(これは一応大丈夫だった)、内分泌内科で検査入院をしたりしてみるも、特にこれといった原因はわからず。というよりも、入院した頃は11月になっていたので、気温も下がっていたり、仕事量もセーブしてもらっていたので、だいぶ調子が良くなっていた。

時は流れて、今年6月。昨年と同じ発汗の症状が現れ始める。今抜けてはいけないと、自分を奮い立たせる。しかしどんどん体調も仕事の状況も悪化する。思い返すと、もうカウントダウンが始まっていた気がする。増える一方の出張(日帰りでの飛行機往復はかなり応える)、続出する仕事上の問題、対応を考える時間もない社内のディスコミュニケーション。
そして限界が訪れる。6月末のとある日。問題が炎上を続けている最中、急遽翌日の出張が決まる。僕が行っても解決しないことはわかりきっているのだが、なんとかしろと。判断する権限も与えられていないのに、なんとかしろと。そうやって負け戦に出陣。
案の定、何の改善も図られず、高みの見物を決め込んでいる上司にメールで報告。折り返しの電話。ちょっとしたすれ違いもあって、辛辣な言葉を浴びせられる。糸が切れた。糸が切れた、と感じた。所謂わかりやすいパワハラとは違って、長い時間かけて判断能力を奪い取り、一方で問題の解決を要求する、そのやり方に僕はもう耐えられなかった。それでもまだ、その時はこっちの能力の低さに問題があるのではないかと自問自答していた。(もちろん今でも自分に全く原因がないとまでは思わないが。うまくやっている(ように見える)人もいるので。)
翌日、全く体が動かない。異常な倦怠感。なんとか飛行機に乗り東京まで戻ってくるも、出社なんかできる状況になかった。這いつくばりながら、自宅でいくつかのメール対応をし、寝込む。
倦怠感は全く収まらず、急激に体力を奪った。一番ひどかったときはほとんど歩けなかった。2〜3日して少し外を歩いてみるも、すぐに疲弊してしまう。これは本当に応えた。何せ歩いて10分程度の妻の勤め先に行くのも休み休みで、家に戻ってきて倒れ込んでしまうくらいだ。後から妻に聞くと、「この頃はこのままどうなってしまうのだろうと相当心配だった」と語っていた。
数時間レベルで外に出られる(=病院に行ける)ようになったのは10日以上先だった。

ここまで来てようやく、約1年悩まされた不調の原因が精神的なところにあるのではないかと思い始める。最後にもう一度、大学病院で検査してもらうも、前述のホルモン数値が低いが病名がつくほどではない状況は変わらない。担当医と少し話すと、ストレスチェックをされて、どうやらそっち側に原因がありそうだと伝えられる。大学病院内の専門科を紹介することも可能と言われたが、いきなり大学病院はという気持ちと、その頃には一度近所の心療内科に行こうと決めていたこともあり断る。

評判のいいクリニックを探し予約。受診の際、これまでの一連の流れを話したところ、冒頭の言葉をいただく。ショックを受ける人もいるらしいし、振り返ると僕もそう思ってもおかしくないのに、自分の反応は全く逆だった。病名がはっきりしたことが何より嬉しかった。それは希望に思えた。これでやっと治療できるのだと。それほど追い詰められていた。それから1ヶ月くらいは薬と休養でひたすら体を回復に努めた。
だいぶ体力が戻ってきたと実感できたのは、8月に入ってからだと思う。復帰についても少しずつ考え始めた。気軽に話ができる上司や部署のトップの人と会ったりもした。その際に、会社全体の体制も変わり、自分の部署がその急先鋒だということを聞いた。どうやら僕が問題視していたことは、僕だけの問題じゃなく会社全体の問題になりそうだということだった。(僕が病気になったという直接的な意味ではなく、働く環境といった意味で。)

その後、一旦8月末に復帰日を決めた後、会社のトップレベルで偉い人や保険師らと話す機会があり、共通の言葉をかけられた。「あまり焦らないように」。
焦っているつもりもなかったが、もう少し休みましょうという結論になった。僕の状態だけじゃなくて、先述した会社の組織改編の影響なんかもあって。また、不調の原因となった場所にそのまま戻ることについてもかなりの懸念があるようで、これを機会に別部署にという話もこの頃もらった。
そんなこんなで9月いっぱいは休むことになった。

ずっと家でだらだらしているのにも飽きたので、保険師から言われた「この機会に旅行にでも行って、頭から仕事を切り離してみれば?」という言葉を鵜呑みにして、1週間ほど1人でポートランドとシアトルに行くことにした。(旅先を決めた理由はここに。)

旅を終え、義実家にも行き、ある程度やりたいことはやりきったと思えた。体調も問題ないし、改めて10月からの復帰を志願した。
そして、先週から別部署で会社に復帰することができた。

復帰後の話をちょっとだけ。
席移動や引継ぎのため、まずは旧部署に行くことに。その際、件の上司とも顔を合わせたが、挨拶程度ですんなり終わる。あっけない。でもその人の下ではもう働きたくないという気持ちは変わらず。
現在は既に新部署にいる。まだ仕事の説明だけで、特にこれといった仕事は始まっていないが、ようやく新しい一歩を踏み出せたと感じている。

これがロングバケーションの詳細。今回のことを時間が経っても忘れたくないから、こんなごく個人的なことを書き記した。

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