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確証はもてなくても。

Okutama, Tokyo
Koenji, Tokyo
Nogizaka, Tokyo

夏の思い出東京編。写真は、奥多摩トレッキング、盆踊り、アメリカン・ポップ・アート展。その他にもディズニーランドや七夕祭りなど他にもいくつかある。
出かける先はほとんどが自分の興味あることなので、いつも付き合ってくれる妻にはとても感謝している。(ディズニーランドと七夕祭りは妻からだったような。)
でもイベント以上に、異常な暑さと激しい雨が記憶に残る夏かもしれない。

カメラを買ってから写真のことをよく考えている。機材を一新したところでうまく撮れるかどうかは別問題。ただ、MFのレンズを使うことで、フィルムの時にようにちょっと考える間ができて、なんとなく撮るという行為が減った気はしている。
写真と珈琲は少しずつでも追求していきたい。

そろそろロングバケーションは終わりを迎える模様。だけど、これからどうなるのかは会社側の思惑もあるため、自分でも予測できないところがあるから「模様」。
自分一人で生きているわけじゃないこともあるし、曖昧な部分が残っていても、自分の意志で進まなければと思う。止めた足を踏み出さなければと思う。

ドラマ。

Ome, Tokyo
Nike
Nike
Nogata, Tokyo

そりゃもう絶望的に意味のない(意味なんて持たせようもない)時間を垂れ流している。
覆せないのだとしても、せめて目を向けよう。

自分のアイデンティティって何だっけ?なんて考えてみても、うまく答えられない時期を迎えている。でもこれまでやってきた中に潜んでいる。確実に潜んでいる。もちろん無色透明なんかじゃないのだから。

新しい一歩を踏み出す頃合い。良くも悪くも、ずっとこの地点にいるわけにはいかない。所謂、過渡期ってやつ。
さあ、そろそろ準備しなきゃ。

主人公になれる場所。

Numabukuro, Tokyo
Numabukuro, Tokyo
Numabukuro, Tokyo
Numabukuro, Tokyo
Numabukuro, Tokyo
Numabukuro, Tokyo

SNSからはずれた場所にアウトプットをしておきたい。そんな欲求があるのかもしれない。ディスプレイとしっかり対峙せざるを得ない場所に。

SNS(TwitterやInstagram)は、スマートフォンという文脈の中での存在が大きい。何気なく、そしてかなりのスピードで、言葉や画像が小さな画面の中で消費されていく。僕もそうやって消費する傾向がある。
一方で、このBlogやFlickrは読む(見る)人に対し、相応の時間を要求する。それでも、情報が多く見える量的な消費よりも、心に留まる質的な消費を重視したい。(もちろん、僕の文章や写真が高質かどうかは微妙、というより低いと思うので、それは上げていかないといけない前提。でも一旦それは忘れる。忘れないとこんな文章書けないから。)

現代では『量から質への転換』なんてことが声高に叫ばれている。それなのにスマートフォンの中では、いかに短時間で多くの情報を人間に叩き込むかが目立っている。極端な話、1日中Twitterしかやっていなかったら、どれだけ高尚なTLでも、身になる部分はそんなに多くないような気がする。知識や技術だけじゃなくて、心を掴まれるような体験という意味でも。
「インターネットから離れて、その時間を本や映画に当てろ」みたいな考えは僕にもないわけじゃない。けれど、例えインターネットの中だとしても、以前はブログなんかを読んだ際、感情の揺れのようなものを時折味わえた。今Twitterでそれを感じることはほとんどない。

もちろんSNSはコミュニケーションが大きな目的なので、そういう意味では素晴らしいソフト。そして、コミュニケーションがヒエラルキーの上位に来る人にとっては、僕が今まで書いた文章なんて理解不能かもしれない。

それを踏まえた上でも、やっぱり自分の家(Blog、Flickr)を大事にしたい。どんなに小さいものであっても。
SNSは教室や職場みたいなもので、常に自分以外の誰かとの関係を意識(配慮)しなければならないし、自分はあくまでも登場人物の一人でしかない。

僕はもっと自由に、自分が主人公になれる場所で動き回りたい。
あなたがもっと自由に、主人公として動き回っている様子を見たい。

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