あっという間に春がやってきた。年度末という絶望を乗り越えたはずなのに、そんなに気分は晴れない。すーっと完全に力を抜けるような、大きな区切りはしばらくやって来ないのかもしれない。
一昨日、日曜日だというのに、仕事のミスが発覚し落ち込む。すぐに謝罪するも根本的な解決にはならないため、もやもやした気持ちで就寝。会社をクビになる夢を見る。
昨日、出社すると、一昨日のミスの件だけでなく、色々なことが起こり、ただただ打ち拉がれる。沈んだまま打合せのため外出。
早く終わったので、少しだけ関わっていて最近オープンした近くの建物に立ち寄った。低層部の図書館と商業施設を歩き回ると、平日なのにかなり多くの人々が集まっていて驚く。人の流れも変わった気がするし、何より、真剣な表情や楽しそうな表情を見ることができて嬉しかった。もちろん問題点はあるのだろうが、俯瞰的に見ると街にポジティブな影響を与えているのではないだろうか。
わずかながら仕事の意義や醍醐味を実感した。やり抜くことができれば、胸を張ることができる、と。
凍った土壌がほんの少しだけ解けた気がした。
何も書くことが思い浮かばないので、テレビを消して、Stan GetzのWhat The World Needs NowのLPを再生した。甘ったるいが決して嫌いではない。
拘ることと拘らないことの両方が大切なんだと思う。許容量ってのがあって、多くのことを突き詰めようとすると、逆に中途半端になる。「時間は限られている」なんて常套句があるけど、興味を追求する能力の方が限られている気がする。あれもしたい、これもしたい、と思い描くことはできても実行はなかなか難しいものだ。とことんなんて言えるレベルまで到達できるのは、かなり稀なこと。(1つのテーマをどこまで細分化するかにもよるが。)
だからと言って、捨てていくという表現はあまり好きじゃない。絞っていくの方が適切だ。絞っていけば、自然と両手から零れ落ちる。時にそれは寂しさを伴い、意図的に削ぎ落とす行為になるかもしれない。でもそれでいい。悪くない。
もはや、「可能性」は広がりを示しているのではなく、長いトンネルを切磋琢磨しながら進んだ先に差し込んでくる光のようなものだ。
何はともあれ、そろそろ暖かくなればいいのに。
2013年2月24日23時、東京の自宅でディスプレイを見ている分には、「まるでコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』の世界みたいだな」なんてことを思ってしまいそうな写真だ。
しかしこの場にいた時には、もちろんそんなことは過りもしない。いたって単純に、「寒い」と認識するだけだ。ちょっと外に出て写真を撮ってくると言ったとき、妻の親族からは「は?」と不可思議な顔で見られた。「必要もないのに、なぜ出ていくのか?」と全く理解ができないというような顔で。
どう足掻いたって身体性から逃れられない場所があった。思考よりも体感が速く、言葉よりも動作が有効な世界。
滞在していた家からはおそらく100m程度しか離れていないのに、これ以上前に進むことはできなかった。前に進む準備が全くできていなかった。
躊躇もなく進行方向を逆転させ、来た時よりも駆け足で、思考を取り戻すことができる空間へ向かった。
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