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可能性の変容。

Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido

何も書くことが思い浮かばないので、テレビを消して、Stan GetzのWhat The World Needs NowのLPを再生した。甘ったるいが決して嫌いではない。

拘ることと拘らないことの両方が大切なんだと思う。許容量ってのがあって、多くのことを突き詰めようとすると、逆に中途半端になる。「時間は限られている」なんて常套句があるけど、興味を追求する能力の方が限られている気がする。あれもしたい、これもしたい、と思い描くことはできても実行はなかなか難しいものだ。とことんなんて言えるレベルまで到達できるのは、かなり稀なこと。(1つのテーマをどこまで細分化するかにもよるが。)

だからと言って、捨てていくという表現はあまり好きじゃない。絞っていくの方が適切だ。絞っていけば、自然と両手から零れ落ちる。時にそれは寂しさを伴い、意図的に削ぎ落とす行為になるかもしれない。でもそれでいい。悪くない。
もはや、「可能性」は広がりを示しているのではなく、長いトンネルを切磋琢磨しながら進んだ先に差し込んでくる光のようなものだ。

何はともあれ、そろそろ暖かくなればいいのに。

思考よりも体感、言葉よりも動作。

Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido

2013年2月24日23時、東京の自宅でディスプレイを見ている分には、「まるでコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』の世界みたいだな」なんてことを思ってしまいそうな写真だ。

しかしこの場にいた時には、もちろんそんなことは過りもしない。いたって単純に、「寒い」と認識するだけだ。ちょっと外に出て写真を撮ってくると言ったとき、妻の親族からは「は?」と不可思議な顔で見られた。「必要もないのに、なぜ出ていくのか?」と全く理解ができないというような顔で。

どう足掻いたって身体性から逃れられない場所があった。思考よりも体感が速く、言葉よりも動作が有効な世界。
滞在していた家からはおそらく100m程度しか離れていないのに、これ以上前に進むことはできなかった。前に進む準備が全くできていなかった。
躊躇もなく進行方向を逆転させ、来た時よりも駆け足で、思考を取り戻すことができる空間へ向かった。

極寒の目線。

Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido
Saroma, Hokkaido

震え上がる寒さに出会った。同じ北海道でも道東の寒さは次元が違う。
元々人口が少ないにしろ、外には全く人はいない。数分歩くにも恐怖を感じるレベルだ。確実に暮らし方が変わる。うまく立ち回らないと本当の意味で死活問題。
ここにいる人と僕では、多分、生きることの目線が違う。

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