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決意は信用しない。

crossover bridges

僕は本当に意志が弱い。「よしやろう!」と決めても、持続しないことがほとんど。勉強をはじめとして、何かを積み重ねることは大体そんな感じで。決意なんてものは役に立たない。けっこう昔からそのことは自覚していて、あるときからそういう根拠のない決意を全く信用しなくなった。
でも怠惰に染まっていては生きていけないと思ったので、やった方がいいけど自信がない場合は、やらざるを得ない環境に自分を放り込むにしている。もちろん最初だけは決断するわけだけど、その後はやるかやらないかなんて判断で悩むこともなく、ただただやり続けるしかなくなる環境に。

まさに今回の資格取得もその手法を使った。具体的な放り込み方としては3つ。
1つ目は、受験することをあえて周りに言いふらすこと。そうすると引き下がりにくくなるし、協力的な態度なんかとられようものなら、手を抜けなくなる。
2つ目が僕にとっては重要で、ある程度金銭的な負担をかけること。無駄金にしないためにそりゃもう必死になる。ちょっと詳しく書くと、1年目はテキストだけもらって自宅学習、そして2年目に通学して一次の学科試験突破を目指すというコースに、60万円くらい即金で資格学校に支払った。で、このコースのポイントは、1年目で学科を通ると二次の実技試験対策コースにお金を回せて、それでも余った分はキャッシュバックされるということ。国の支援制度を使ったこともあり、結果的には自腹で学校に支払った合計はおおよそ30万円で済んだ。(それでも十分高いけど。)
結局何が言いたいかというと、金銭的なリスクを取ったということ。一次試験に落ちると、翌年に向けて学校へ通うことが決まっているので、否応無しに60万取られるわけだからそりゃ必死にもなる。二次の実技対策の分を入れたら、100万近くに膨れ上がるわけだし。一次が通って二次で落ちると、翌年は二次から再チャレンジできるけども、それにしたって学校へ通うには相応の金額が飛ぶ。
3つ目は副産物的な要素だけど、継続的な学習を続けていると、他に使えた時間を犠牲にしているという見方もできる。実務的な知識として必要な部分もある一方、所詮資格を取るための勉強でしかない側面もあり、それに何年もかけるのはもったいない。

結論としては、当たり前だけど1年で取ってしまうのが金銭的にも時間的にも最も負担が少ない。合格しないと諸々のリスクが大きすぎる状況に持ち込むことは、すぐに揺らぐ自分の決意なんてものより、よっぽど信頼できる自己コントロールだと思う。

資格の話で顕著だっただけで、何事も基本的には「自分はだらしない」という前提を踏まえて、「じゃあそんなだらしない自分がそれをやるにはどうすべきか」ってことからスタートするようにしている。
別にリスクを取るだけがモチベーション維持の方法じゃないけど、「なんとなくやれそう」とか曖昧なものは本当に危険だと思う。

the future has come.

future

明るいばかりじゃなくても未来はやってくる。
大人になってからは一喜一憂してばかりだと思っていたけど、いつだって一喜一憂してきた気がする。
むしろ、簡単には動じないくらいにならないと、大人とは言えないのかもしれない。だとしたらしばらく大人にはなれなそうだ。
それでも未来はやってくる。

殻と実。

diligent workers

村上春樹さんがメールでの質問に答えるサイトを眺めていて、ぼんやり思考した。『好きな作家に何かを答えてもらえる機会に、なぜ自分はメールを送らなかったのか』ってことが考えるきっかけだったと思う。

たぶん僕は村上春樹という人物ではなく、彼から生み出された物語(小説だけでなく紀行なんかも含む)が好きなんだ。(いや彼のことは好きといっても過言ではないと思うけど、書きたいことを明確にするために仕方なくこういう書き方にしています、はい。)
で、別に村上さんに限ったわけじゃなく、そういう傾向は他にもある。
音楽でいうなら、あくまで曲やアルバムが好きの対象であって、歌い手や演奏家にそこまで興味がなかったりする。好きなバンドでもメンバーの名前はほとんどわからないことが多いし、生い立ちなんかも進んで調べようとは思わない。
つまり、とあるアウトプットに対して、それがどんな人物から作り出されたかにあまり興味が向かないってことだと思う。もちろん例外はあるのだけど。

そういう意味では、「誰が好きか(嫌いか)」「尊敬する人は誰か」みたいな話になると、実際に会ったことのある人が対象となりやすい。だって会ってない人のことはわからないから。顔を合わせて会話をして(場合によってはそれを何度か繰り返して)初めて、好きとかすごいとかそういったことが本当にわかると思っている。
たとえば、かわいいなと思う芸能人がいたとして、彼女が誰かと付き合ってようが誰かと結婚しようが、それによってネガティブな感情に苛まれることはなかったような気がする。あくまで容姿がかわいいと思うだけで、僕にとっては知らない人という位置づけだから。

と、つらつら書いてきたものの、すごい人がすごいものを生み出す傾向にあるとは思うし、作品を愛したら製作者が気になるのは人として当然なように感じる。自分はどこか欠落しているのかもしれない。そしてすごく大事なことを見落としてきているのかもしれない。でもまあこれが自分の性質だし、知りたいと思えば調べたりもするわけで、誰にも迷惑かけてないと思うから仕方ないと割り切るしかない。

余談として、会って嫌われるのはまだ諦めつくけど、インターネットにいる僕だけで嫌われるのはなんだかとても切ない。まあ自分でコントロールできることじゃないから、去るものは追わない、見たくないものは見ないに限る。
昨日、とある機会に乗じてツイッターでやりとりしている方と初めてお会いしたら、やっぱり入ってくる情報量が全然違った。品定めしているとかいうわけじゃなく、自然に総体としての『人物』が溢れていた。結局、顔を合わせて話すと自分自身を隠し切れないんだよね。(相手にとっての僕もそうだったと思う。)

そういうわけで、余程のことがなければ実際に会っていない人をあまり決め付けたりしたくない。身体という殻に覆われている実(本質的な何か)を感じるには、少なくとも目の前にその殻を置く必要がある。

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