*

*

*

殻と実。

diligent workers

村上春樹さんがメールでの質問に答えるサイトを眺めていて、ぼんやり思考した。『好きな作家に何かを答えてもらえる機会に、なぜ自分はメールを送らなかったのか』ってことが考えるきっかけだったと思う。

たぶん僕は村上春樹という人物ではなく、彼から生み出された物語(小説だけでなく紀行なんかも含む)が好きなんだ。(いや彼のことは好きといっても過言ではないと思うけど、書きたいことを明確にするために仕方なくこういう書き方にしています、はい。)
で、別に村上さんに限ったわけじゃなく、そういう傾向は他にもある。
音楽でいうなら、あくまで曲やアルバムが好きの対象であって、歌い手や演奏家にそこまで興味がなかったりする。好きなバンドでもメンバーの名前はほとんどわからないことが多いし、生い立ちなんかも進んで調べようとは思わない。
つまり、とあるアウトプットに対して、それがどんな人物から作り出されたかにあまり興味が向かないってことだと思う。もちろん例外はあるのだけど。

そういう意味では、「誰が好きか(嫌いか)」「尊敬する人は誰か」みたいな話になると、実際に会ったことのある人が対象となりやすい。だって会ってない人のことはわからないから。顔を合わせて会話をして(場合によってはそれを何度か繰り返して)初めて、好きとかすごいとかそういったことが本当にわかると思っている。
たとえば、かわいいなと思う芸能人がいたとして、彼女が誰かと付き合ってようが誰かと結婚しようが、それによってネガティブな感情に苛まれることはなかったような気がする。あくまで容姿がかわいいと思うだけで、僕にとっては知らない人という位置づけだから。

と、つらつら書いてきたものの、すごい人がすごいものを生み出す傾向にあるとは思うし、作品を愛したら製作者が気になるのは人として当然なように感じる。自分はどこか欠落しているのかもしれない。そしてすごく大事なことを見落としてきているのかもしれない。でもまあこれが自分の性質だし、知りたいと思えば調べたりもするわけで、誰にも迷惑かけてないと思うから仕方ないと割り切るしかない。

余談として、会って嫌われるのはまだ諦めつくけど、インターネットにいる僕だけで嫌われるのはなんだかとても切ない。まあ自分でコントロールできることじゃないから、去るものは追わない、見たくないものは見ないに限る。
昨日、とある機会に乗じてツイッターでやりとりしている方と初めてお会いしたら、やっぱり入ってくる情報量が全然違った。品定めしているとかいうわけじゃなく、自然に総体としての『人物』が溢れていた。結局、顔を合わせて話すと自分自身を隠し切れないんだよね。(相手にとっての僕もそうだったと思う。)

そういうわけで、余程のことがなければ実際に会っていない人をあまり決め付けたりしたくない。身体という殻に覆われている実(本質的な何か)を感じるには、少なくとも目の前にその殻を置く必要がある。

Post a Comment

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>