時間の経過とそれに対する感覚のズレが大きくなってきている。週のうち1日半が出張で潰れると、あっという間に一週間が終わる。どんどん不純物が取り除かれ、対峙している物事だけが僕を覆う。不純物と表現しても本当は必要なものかもしれない。その判断すらできない(あるいはしない)。
向き合うことはある意味で可能性を絞り込んでしまう。それでも多くの可能性を残したままでは到達できない場所もある。脳が最短ルートを割り出し、体はシステマティックに動く。機械だ。意志の介在する機械。悪くはない。人間らしい生活への執着は、損なうものはないが手の届かないものは出てくる。結局何もかもトレードオフなんだ。得ると同時に失い、失うと同時に得る。
誰よりも高いところに向かいたい欲求はあまりないが、視界不良のもっと深い地点へは行ってみたい気がする。高みは地位で深さは思考かもしれない。
ハーフマラソンを走った。痛めている膝が回復していなかったので、結果は散々だった。折り返し地点からはまともに走れる状態ではなく、どんどん抜かれていった。(が、痛みでそれどころじゃなく、実際に抜かれた数ほどの実感はない)
完走できればいいやと考えていたとはいえ、けっこう悔しい。こんなはずじゃないのにと、走りながらずっと思っていた。原因はどうあれ、今の自分がこの程度であることを受け入れるしかない。受け入れて次に向かうしかない。
生きていくことは、こんなはずじゃなかったのにってことばかりだ。それでも、「こんなはずじゃなかったのに」とうじうじするか、「こんなはずじゃなかったのにとか考えても仕方ないし、ここからまた」と動き出すかは選択できる。
並走。
Category:
Memento |
2016/01/17
心の中にはいくつかの原風景があって、視覚として残っていなくても嗅覚や聴覚だけだとしても、あるいは具体的ではなくても抽象的だとしても。意図して浮かべられなくても、何かのきっかけで自分の中で浮かび上がってきたりもして。そしてそれは人そのもののことだってある。
大抵のものは過去に閉じ込められていて、良い意味でも悪い意味でも冷凍されたそれを記憶として取り出すことしかできない。だけどもごくわずか、ほんのわずか、原風景が地続きのまま僕の歩みと並走してくれることもある。そのままの状態ではなく、少しずつ、いや時にはガラリと形を変えてしまっても、僕の方だって時間の経過によって変化するのだから大きな問題ではない。消えてしまわないだけで奇跡的だと言っていい。
圧倒的な存在感で君臨する原風景であり、ずっと続いてきた当たり前の中に潜むとてつもない奇跡は、これから先も僕と並んで歩いてくれるのだろうか。
インターネットの片隅から、ちっぽけな願いを飛ばしてみる。
シンプルに生きるには努力しなくちゃいけない。
そのことをひしひしと感じている。
代官山から恵比寿に向かう駒沢通りが好きだ。何があるわけでもなく、やたらに幅の広い道路で車が行き交い、その割に歩いてる人は少ない。通り沿いにある、タバコの煙が蔓延している昔ながらの喫茶店には随分行っていない。愛想をふりまかないあの感じは好きなのに。
12月になってからはやたらとお酒を飲む機会が多い。仕事関係がほとんどだけど、それほど嫌な気分になることはない。昔は付き合い的な酒が決定的に苦手だった。時間の無駄としか思えなかった。今は無駄に潜り込むことで、後々救われることもあるって思えるから、それなりに楽しくやっている。(あくまで“それなりに”というのがポイントだ。)
とはいえ必要最低限に留めていて、自分が無理しない程度でやりくりしている。無駄はよくても無理はよくない。
この先新たな出会いはあるだろう。でもその出会った人の奥底にあるやらかい部分に触れることはできないかもしれない。いやこれまで出会ってきた人達のそういう部分にもほとんど触れることなんてできてない可能性すらある。
それでも僕がどこかで見せている顔は(それがたとえ取り繕っているとしても)やらかい場所に繋がっているし、表出している多面性そのものが僕の中心に腰を据えているような気もする。全てと対面できる人はいないし、自分自身だって同時に感じることはできない。しかもそれぞれの顔は少しずつリニューアルしていくのだから、総体を捉えるなんて難しい(では済まない)。
全て知りたいなんて思わなくなったその時が大人になった瞬間と定義できる。なんてことを考えながら夜が更けていく。
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