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here and there.

Mt. Warabi

高級なものを手に入れたり、特別な待遇を受けたり、そういったことで満たされるものは確かにあるのかもしれない。それはそれとして、ごく普通の日常に潜んでいる自分にしかわからないような琴線に充足を見出だすのもなかなか悪くない。

例えば、福沢諭吉が軽々飛んでいく店で上質なものをほおばる日もあれば、野口英世1枚でおつりがくるような汚い店でしっぽりやる日もあって、その両方とも形は違えど楽しめればそれに越したことはない。兎にも角にも大切なのは、自分を満たしてくれるものはなんなのか意識することである。他人から羨望されることが喜びだとしても(個人的にはあまりそういうことで自分を満たす人は苦手だけど)、まあ特に問題はない。ただし、その限定された枠の中だけの基準を何もかもに当てはめてしまうのはもったいない。多様な価値観を認めるみたいな言説もそりゃ重要だけど、自分自身を多様化させていかなきゃどこかで行き詰まってしまう気がしないでもない。

目を凝らせば大抵そこには面白がれる要素がある。と同時に、それでもどうしても果てしない悲しみが広がっている場合もある。それがまたとても難しいのだけれど。

can’t hide.

yawning

ここのところ、所謂文化系の活動はほとんど休止中で、所謂運動系の活動ばかりしている。元々ハイキングとフィットネスジムが始まりだけど、最近は雨が多く後者ばかり。

受動的なところから能動的なところに自分を置くこと、身一つで成果まで辿り着けること、そこかしこにある雑音に惑わされなくて済むこと、などなど今の自分にとって必要なことが多分に含まれている。でもそんなことよりも、ただやりたいからやっているだけなような気もしてきている。
強いて言うなら、東京は本当に文化的なものが溢れていて、10年近くその文化を享受しようと自分なりに躍起になっていた。そうするとどんどんフィジカルが置き去りになり、加えて加齢からくる衰えも感じつつあって、ここらで一度学生時代の動けていた自分を取り戻してみようじゃないかと発起した。
だいぶ体も絞れてきたし、持久力もそこそこついた。とはいえイメージの中にある過去の自分はまだ先にある。そこまでいけるかわからないというかおそらく無理だとわかっていても、諦める選択をする必要はないだろうから細々とでも続けたい。

知識や技術や感情や言葉やその他諸々を最大限に活かすには、肉体というプリミティブなものをある程度自由に動かせられないといけない。逆に特別な能力がないからこそ、それが重要なんだと思う。
あとは職業柄、腹の出てる奴がサスティナブルとかスマートとかデザインとかのたまっても説得力ねぇだろ、単純に。「お前自身の持続可能性はどうなんだ?」とか思われるだろ、心の奥で。

去年は資格の年だとしたら、今年は肉体鍛錬の年にしたい。

復活の呪文があるなら。

after-dark sea

プライベートでやりたいことは割と明確なんだけど、それが仕事となるとすごく曖昧だ。与えられた仕事にはそこそこ対応できる一方、どんな仕事をしたいか問われたとき、すぐにははっきりと答えらない。
仕事そのものへの面倒くささみたいなものが先行してしまい、どんな仕事でも大差ないんじゃないかとか、そんなことを感じてしまう。というより、これまでの経験では大変なことがほとんどで、その大変さが自分を覆ってしまい、わずかばかりの楽しさや面白さもどこか奥底に隠されてしまったのかもしれない。しかも働き始めて比較的すぐに。

成し遂げたいこととそれに対する犠牲の間を彷徨っていて、色々なところを蝕んだ犠牲に対してアレルギー反応が強くなってしまった。

心や体が回復しても、モチベーションが最後のハードルとして残されている。

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