先日、飯田橋のギンレイホールで『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』と『グランド・ブダペスト・ホテル』を立て続けに観た。(ギンレイホールは2本立ての所謂名画座で、初めて行ったんだけど雰囲気のあるとてもすてきな場所だった。)後者の方が誰に対してもおススメしやすいのだけど、心に引っかかった前者について書いてみる。
つらつら書く前に、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』って邦題はあまりにもダサいので、以下『Inside Llewyn Davis』と記載することにする。
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くるりのライブを観た。とても心に響くものであったので、ライブの感想だけでなく、思い出話を絡めて書こうと思う。(以下、曲目など出てきます。)
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誰かの言葉も見える風景も聴こえる音も皮膚にあたる風すらも、自分の状態次第で湧いてくる感情が違う。とても難しいよね。同じ時間、同じ場所に立って、同じ方向を眺めていたって、隣の人が同じことを考えているわけではないのだから。
僕の善かれがあなたの悪しきにもなる。大切な人への思いやりが、また別の大切な人を傷つけることだってある。
全てが相対化されて、常に比較が側を付きまとう。努力の相対化、絶望の相対化、才能の相対化、なんだって上下関係で見られる。もうその見方しかないんじゃないかってくらい比較の中を生きている。
後ろめたさや見下しや妬み。全部そこから出てくる。
そして変化は許容されない。時間が経つにつれて考えや気持ちが変わることなんて当たり前のことなのに、ありとあらゆる発言に責任が伴ってくる。
がんじがらめだ。
僕はそう感じて動きづらくなっているので、もっと自由にやろうと思う。見えない群衆の抑止力を気にせず、明らかに邪なことを除いて、心から出たものをそのままポンと出したい。他の人が自分の考えと違ったって、「あー、そういう考え方もあるのか」って受け入れたい。敵じゃない。考え方の違う人がいるだけだ。
直接的な利益・不利益が生じてしまう場合はそう単純でないにしろ、できるだけしなやかな様で暮らしていければなと、そんなことを意識する今日この頃。