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殻と実。

diligent workers

村上春樹さんがメールでの質問に答えるサイトを眺めていて、ぼんやり思考した。『好きな作家に何かを答えてもらえる機会に、なぜ自分はメールを送らなかったのか』ってことが考えるきっかけだったと思う。

たぶん僕は村上春樹という人物ではなく、彼から生み出された物語(小説だけでなく紀行なんかも含む)が好きなんだ。(いや彼のことは好きといっても過言ではないと思うけど、書きたいことを明確にするために仕方なくこういう書き方にしています、はい。)
で、別に村上さんに限ったわけじゃなく、そういう傾向は他にもある。
音楽でいうなら、あくまで曲やアルバムが好きの対象であって、歌い手や演奏家にそこまで興味がなかったりする。好きなバンドでもメンバーの名前はほとんどわからないことが多いし、生い立ちなんかも進んで調べようとは思わない。
つまり、とあるアウトプットに対して、それがどんな人物から作り出されたかにあまり興味が向かないってことだと思う。もちろん例外はあるのだけど。

そういう意味では、「誰が好きか(嫌いか)」「尊敬する人は誰か」みたいな話になると、実際に会ったことのある人が対象となりやすい。だって会ってない人のことはわからないから。顔を合わせて会話をして(場合によってはそれを何度か繰り返して)初めて、好きとかすごいとかそういったことが本当にわかると思っている。
たとえば、かわいいなと思う芸能人がいたとして、彼女が誰かと付き合ってようが誰かと結婚しようが、それによってネガティブな感情に苛まれることはなかったような気がする。あくまで容姿がかわいいと思うだけで、僕にとっては知らない人という位置づけだから。

と、つらつら書いてきたものの、すごい人がすごいものを生み出す傾向にあるとは思うし、作品を愛したら製作者が気になるのは人として当然なように感じる。自分はどこか欠落しているのかもしれない。そしてすごく大事なことを見落としてきているのかもしれない。でもまあこれが自分の性質だし、知りたいと思えば調べたりもするわけで、誰にも迷惑かけてないと思うから仕方ないと割り切るしかない。

余談として、会って嫌われるのはまだ諦めつくけど、インターネットにいる僕だけで嫌われるのはなんだかとても切ない。まあ自分でコントロールできることじゃないから、去るものは追わない、見たくないものは見ないに限る。
昨日、とある機会に乗じてツイッターでやりとりしている方と初めてお会いしたら、やっぱり入ってくる情報量が全然違った。品定めしているとかいうわけじゃなく、自然に総体としての『人物』が溢れていた。結局、顔を合わせて話すと自分自身を隠し切れないんだよね。(相手にとっての僕もそうだったと思う。)

そういうわけで、余程のことがなければ実際に会っていない人をあまり決め付けたりしたくない。身体という殻に覆われている実(本質的な何か)を感じるには、少なくとも目の前にその殻を置く必要がある。

切り売り。

outside food store in the cold

(比喩として)貯金を切り崩して生きている。その感覚がずっと続いている。吸収されることなく、手持ちの中だけからアウトプットが吐き出され続けるような。
実際には新しいことを得る機会も少しはあるし、何より資格の勉強で得たことは(忘れつつあるとしても)実務的にはなかなか大きい。
それでも冒頭の感覚が抜けない。きっと周りのスピードと比べてしまっている自分がいるのだろう。11月から戻った部署は忙しなく働いている人ばかりで、距離は遠くなっていくばかりだ。焦ってはいけないとわかっていても、こういう劣等感は同じような状況に身を置くまでは消えない。(そしてその状況になると、こういうことを考える余力すらなくなるだろう。そのときのためにも今書いておく。)

こういうときは発想を転換させることが必要だ。資格取得に費やしていた膨大な時間を新たな何かに向かう時間としなければ。
1つ目は、増えた業務量に対応する時間。なんだかんだで旧部署にいた頃に比べれば時間をとられているのは確か。
2つ目は、アカデミックな視点、テクニカルな知識を取り入れる時間。実務ばかりやっていると、どうしても場当たり的というか課題解決型に陥ってしまうため、もう少し軸のようなもの、発想の拠り所になるようなものを身につけたい。大学院時代のことを思い出しつつ、取り組み始めたところ。加えて、PC関連のスキルも上げておけると尚良い。
3つ目は、仕事以外の部分を基盤を固めておく時間。具体的には、健康やお金や家族や趣味など。忙しさのピークのときには、仕事以外は少しでも睡眠となってしまうのは経験済み。そうなったときに少しでもその他の負担を減らしておけるかが重要だと思う。趣味ばかりではなく、かったるいなと感じてしまうことも今のうちに。

こういう風に言語化しておくことで、焦っている理由までは立ち戻らなくていい。取り組むべきことはけっこう明確なので、変なレベルで悩まず、取り組んでいる内容そのものに頭や時間を使おう。

本当は4つ目として人間関係ってのもあるなと思ったんだけど、まあそれが不調に陥ったこととも関連しているし、あまり大々的に語らず流れやタイミングを見て。とりあえず、仕事関係では嫌だなと思わないときは顔を出すようにしている。

 

それにしても今日の東京は寒かったですね。皆さん風邪など引かれませんよう。

specific gravity of words.

smoking of New Year's Eve

発言には責任が伴うという前提を踏まえた上であえて言うなら、言葉なんて所詮言葉でしかない。いくらでも耳障りの良いことは言えるし、虚勢だってはれる。だから軽んじていいというわけではなく、そういう可能性を頭に入れておくことで、何でもかんでもバカ正直に受け止めなくてよくなる。
すばらしい言葉は時としてそれ自体がエネルギーになることはもちろん否定できない。(自分も感銘を受ける機会はある。)ただしそのことと、すばらしい言葉に基づく行動ができているかは別問題だし、できているかどうかはよく観察しないとわからない。そういうわけで単独で浮かんでいる言葉を必要以上に重く捉えないように心がけている。
一方で、大したこと言ってないように見えて、すごい行動をしている人もたくさんいて、そういう人の言葉に耳をすませたい。きっと思考や行動のスピードに言葉が追いついてきてないだけで、色々なことを秘めているはず。

どちらにせよ膝をつき合わせて話してみないと、結局何を考えているのかなんてよくわからない。むしろ一回話したくらいでという部分もあるのかもしれないし、話すなんかより佇まいの方がその人をよくわかる場合もありそうだ。

本当はフォークナーの『八月の光』を読んで感じたことも綴ろうと思っていたが、今まで語ってきたことと内容が少しずれてくるし、それはまたの機会に。

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